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鋤田正義「デヴィッド・ボウイ写真展」“TIME – David Bowie by Masayoshi Sukita”に行きました(感想/レビュー)

鋤田正義「デヴィッド・ボウイ写真展」“TIME – David Bowie by Masayoshi Sukita”に行きました。感想でも書いてみたいと思います。

david bowie sukita 鋤田正義「デヴィッド・ボウイ写真展」“TIME   David Bowie by Masayoshi Sukita”に行きました(感想/レビュー)

日時: 2014年12月4日(木) – 12月9日(火)
場所: スパイラルガーデン1F(東京都港区南青山)/入場無料
協賛: 東京リスマチック株式会社 株式会社ワーナーミュージック・ジャパン
会場構成: 中島英樹(NAKAJIMA DESIGN)
プロデュース: 熊谷朋哉(SLOGAN)
スペシャル・トークショー: 鋤田正義 ✕ リリー・フランキー(ゲスト)
web: http://sukita.jp, http://www.slogan.co.jp/time_davidbowie_sukita/

数々の著名人を写真に収めた鋤田正義氏の「デヴィッド・ボウイ写真展」が開催されるということで、開催期間中である2014年12月6日(土)、青山スパイラルガーデンにて観覧することができました。

無料の写真展ということもあり、写真点数が若干少なめですが、世界一美しい男、世界一変化に富んだ男、デビッド・ボウイの写真の数々が僕の顔をニヤニヤとさせてしまいます。スパイラルガーデンの1Fラウンジスペースを十分に使った写真展となっていて、展示されている写真がとても大きなものが多かった為にデビット・ボウイそのものに包まれているような錯覚を受ける写真展でした。

これまで、ポップアイコンだとかアイドルだとか様々な種類の人気者が存在してきましたが、デビッド・ボウイは人それ自身がカルチャーにまで昇華したアーティストの一人だといえるでしょう。

david bowie sukita2 鋤田正義「デヴィッド・ボウイ写真展」“TIME   David Bowie by Masayoshi Sukita”に行きました(感想/レビュー)

デビッド・ボウイは70年代、グラムロックとファッションとアートを世に送り出しました。80年代、ダンスロックと美しい容姿で世界のアイドルになりました。90年代、迷走を繰り返しながら時代は彼を必要としませんでしたが、ボウイファンドや他アーティストとのコラボレーションなど新しい試みを追及し続けました。そして、90年代最後、アルバム『hours』を発表し時代と共に歩み出しました。2000年代、再びロックスターに返り咲いた彼は精力的に作品を世に送り続けました。しかし、デビッド・ボウイは姿を消してしまいました。それはとても長い沈黙でした。2013年まで10年もの長い年月を経て蘇った彼はやはりデビッド・ボウイそのものでした。

デビッド・ボウイはデビッド・ボウイというアートでありカルチャーだと思うのです。だから、彼の写真が胸元にプリントされたTシャツはアートになり、彼が街並みに佇む姿を収めた写真は彼自身と共に街並みそれ自体も芸術的な装いに見えてしまいます。そして、彼は知的で美しい。こんな形容を女性以外にしても可笑しくないのはデビッド・ボウイだけかもしれません。世代を超え変化してもなお、デビッド・ボウイという存在を求める人々がいます。それはとても素晴らしいことだと思います。

この写真展でグッズを見ていたら、昔からのファンなのでしょうか、一人のおばさんが隣に来て僕に話しかけてきました。そして、Tシャツ高いわねと愚痴を言っていました。たしかに、デビッド・ボウイの写真が印刷されているだけのTシャツに1万円という価格は高いと思います。とても高いです。だけど、それがデビッド・ボウイの価値、値段なのです。

アルバム『Heroes』に採用されたデビッド・ボウイの写真が印刷されているTシャツの価値はとても長い年月を経て高まったと考えられます。

アルバム『Heroes』のジャケット写真はシュールで斬新なポーズでした。曲の世界観とマッチしたこの作品は人々にデビット・ボウイというアイコンを大きく印象付けた要素の一つであったと言えるでしょう。年月は過ぎて2013年、デビッド・ボウイは自らがそれを否定するかのごとく、アルバム『The Next Day』という作品を世に出して、再度我々の前に姿を現しました。その出来事は音楽界、アート界に多大な衝撃を与えました。70年代に鋤田正義氏が撮った一枚の写真がとてつもなく壮大な音楽とアートの物語に関与していたことに他ならないのです。だから、アルバム『Heroes』に採用されたデビッド・ボウイの写真が印刷されているTシャツの価値は高いのです。そして、デビッド・ボウイは常に私たちに影響を与え続けてきたから、デビット・ボウイ自身の価値を保ちつづけた結果であるとも言えます。

david bowie sukita3 鋤田正義「デヴィッド・ボウイ写真展」“TIME   David Bowie by Masayoshi Sukita”に行きました(感想/レビュー)

展示会場にはパンフレット、Tシャツ、ポスター、ポストカードなど様々なグッズが売っていました。Tシャツは買いませんでしたが、思わずいろいろと買いすぎてしまったので、反省しているところです。

デビッド・ボウイは今後も様々なアートやカルチャーシーンで影響を与え続けるでしょう。そして、その影響を受けたアーティスト達がまた誰かに影響を与えて、デビット・ボウイという存在の連鎖は止むことはないと考えています。

小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー)

小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました。
川上未映子氏の小説を読むのは初めてです。感想でも書いてみたいと思います。

 小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー) 小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー)

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫) 小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー)

川上未映子氏は同年代ということもあり、勝手に親近感を感じていたのですが、とても綺麗な容姿と独特のキャラクターからどんな文章を書く人なのかは知りませんでした。随分前に、ジャケットが気に入って「悲しみを撃つ手」というCDを買ったことはありましたが、それ以降は川上未映子氏の作品というものに触れたことはありません。

大阪育ちの独特のキャラクターであることが先行イメージとして僕の頭に残っていて、小説を読む機会を遠ざけていたのかもしれません。また、同年代の物書きという者にどこか受け入れがたい感情を抱いていたのも少なからずあります。

とある日曜の朝にテレビ番組を見ていると芸能人の誰かが「すべて真夜中の恋人たち」を読んで号泣したという話をしていました。僕もこの小説のタイトルは知っていたのでとても気になっていましたし、そんなに良いのなら時間をかけて読んでみたいと思いました。

アマゾンのレビューでは残念ながら酷評が多くて買うのを躊躇ってしまったけど、僕はこの言葉の意味を知りたかったのです。

真夜中はなぜこんなにもきれいなんだろうと思う。それは、きっと、真夜中には世界が半分になるからですよと、いつか三束さんが言ったことを、わたしはこの真夜中を歩きながら思い出している。

なんてロマンチックな会話なのでしょうか。世界はどこか半分づつでできていると思わされる言葉です。昼と夜、光と影、男と女、喜びと悲しみ、愛情と憎悪、喧騒と静寂、などなど挙げたらキリが無いほど世界は半分づつでできています。

僕はこの小説の中に世界が半分づつできている答えが隠されていないかと期待していました。

主人公である冬子の代わり映えのしない生活とうごめく感情を中心に物語は進みます。物語そのものの舞台は冬子の生活圏内の中で全てが完結しているとても狭い範囲内の出来事で、ダイナミックなシーン展開はありません。しかし、それがまた良いのです。冬子の内面の声や変わりゆく状況が淡々と積み上げられていきます。

相反する性格やライフスタイルの違う聖との関係性が変化していくこともこの物語の本質なのかと思います。人はもう半分を追い求めて生きているのならば、間違いなく冬子と聖はお互いもう半分の求めている自分そのものなのだろうと感じました。三束さんとの関係に至っては自分と同類の思考で似ている部分を求めながらも違う性であることから生じるもう半分を得たいと思ったのではないかと思いました。だから三束さんとではなく、聖との関係性が最後に残った形で物語が終焉していくことになったのだと考えました。

人は足りない何かに目を向けて補おうとします。自分が持っていることと他人が持っていることに目を向けて別の自分を欲しがったりします。真夜中には世界が半分になる。それはそんな自分の心の中を垣間見る普遍的な時間のことなのかもしれません。

登場人物は多くは無いけれども、それぞれの登場人物と冬子の言葉のやりとりは人が持つある一面とその相反したもう一方の一面が緩やかに絡み合って収れんされていく様子が描かれています。その様子は激しくはないけれど、ゆっくりと確実に人と人との関係性を作っては消していきます。

読み終えてみて、冬子の感情を通して自分自身の内面を覗かれるような作品だと感じました。
世界が半分づつでできてる答えはより深まり、世界が半分づつでできているからロマンチックであるのだなと思います。

この小説はハードカバーがとても綺麗ですが、つい先日、文庫化されたので多くの人に読まれたら良いなと思います。

 小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー) 小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー)

すべて真夜中の恋人たち (講談社文庫) 小説「すべて真夜中の恋人たち」を読みました(感想/レビュー)

テレビ「ニッポン戦後サブカルチャー史」が素晴らしい(感想/レビュー)

テレビ「ニッポン戦後サブカルチャー史」が素晴らしい。
是非、再放送を期待したい番組です。感想でも書いてみたいと思います。

nhk subculture テレビ「ニッポン戦後サブカルチャー史」が素晴らしい(感想/レビュー)

この番組を知ったのは、第7回 「「おいしい生活」って何?~広告文化と原宿・渋谷物語~ 80年代(2)」を観たことがきっかけだったと思います。

母校の大学の授業で学生達と80年代から現代に至る文化的な変遷を議論していた流れの中、改めて自分達が生きてきた社会や文化について頭の中で再整理したいと考えていた時でした。また、僕は80年代のキラキラしたバブル期のカルチャーをテレビや雑誌で見ていた世代であり、90年代中盤から2000年代初頭まで「Quick Japan」や「STUDIO VOICE」を読んではサブカルチャーの世界に嵌っていた者としてはこの番組はとても興味深く感じました。

番組は宮沢章夫氏が戦後日本のサブカルチャー史について講義形式で伝える内容です。

講 師/宮沢章夫 みやざわ あきお
劇作家・演出家・作家。1956年12月9日生。80年代半ば、竹中直人、いとうせいこうらとともに、「ラジカル・ガジベリビンバ・システム」を開始。その作演出をすべて手掛ける。90年、作品ごとに俳優を集めて上演するスタイルの「遊園地再生事業団」の活動を開始し、『ヒネミ』(92年)で、岸田戯曲賞受賞。エッセイなど執筆も多く、小説「サーチエンジン・システムクラッシュ」(99年)では、芥川賞・三島賞候補。「時間のかかる読書ー横光利一『機械』を巡る素晴らしきぐずぐず」で2010年伊藤整賞。大学で、演劇論、サブカルチャー論を講義するなど活動は多彩。

番組のナビゲーターである、宮沢章夫氏のことはこの番組で初めて知りました。プロフィールは演劇家ということで、時代と寄り添い様々な切り口で表現者として活躍されてきた方のようです。顔立ちがはっきりしていてハスキーボイスの宮沢彰夫氏が語る講義形式のサブカルチャー史は見る者を引き込み、説得力があります。

この番組はとても反響があったようですが、たしかに独断といわれるほどの内容かもしれません。しかし、誰かが語り誰かが整理しなくてはならない。その時代に生きた者はその生きている瞬間のことはなかなか整理することができません。少し時間が経過した頃、あの時はこうだったと整理できるものだと理解しています。

最終回である、第10回 「サブカルチャーはどこから来て どこへ行くのか?ゼロ年代?現在」はサブカルチャーとは何かということをまとめた内容でした。2000年代のサブカルチャー文化はこれまでの文化形成から変わっていきます。インターネットやスマートフォンの普及により、文化の発信に場所を選ばなくなったこと、それによりサブカルチャーはポップカルチャーに飲み込まれることが多くなったこと、それでもなお、サブカルチャーはあらゆる場所、あらゆる種類の物が生まれるということ。また、それらサブカルチャーの文化の中心というのがどこにあるのかというのを考えることが大切であるということ。中心は何かということを見据えて、下位文化、逸脱したものを見つめる目を養うことが大切だと宮沢章夫氏は語ります。

宮沢章夫氏が語るカルチャーの定義

ポップカルチャー:大衆文化

サブカルチャー:下位文化、逸脱した文化

カウンターカルチャー:対抗文化

80年代マスメディアが作る文化に対抗して様々なサブカルチャーが生まれ、プロダクト中心の世の中から情報が価値を持つ時代へと移り変わっていったのだと思います。バブルが崩壊した90年代はプロダクト中心から情報中心への社会への移行期間であり、過去をお手本にしていては未来が築けない世の中になったのだと考えられます。2000年代に入り情報中心社会が確立すると同時に社会情勢が変化して重大事件が起きます。心の拠り所となるはずの過去のお手本はまったく意味を成さず、自らが何かを生み出すことを求められる世の中になったのかもしれません。

また、それを叶える為のテクノロジーの進化があり、人と人とを繋ぐコミュニケーションのあり方も急激に変化してゆきました。社会や会社やコミュニティーが主体となる世の中から個が主体となる世の中になったのだと思います。だからこそ、趣味趣向が多様化してこれまでサブカルチャーと呼ばれていたものが、あたかもポップカルチャーであるかのように伝えられることも増えたのではないでしょうか。僕自身が考えるサブカルチャーはもはやサブカルチャーではなく、それぞれが対等な多様化した文化の一つの側面でしかないと感じています。

90年代までにあったマス主体のポップカルチャーが終焉を迎えつつある中で、ポップカルチャーとサブカルチャーの境界線は限りなく無くなり、昔からあるようなオタク的な側面を持つアンダーグラウンドな世界とは区別されていくのかなと思います。インターネット一つを取ってみても90年代はアンダーグラウンドな世界でしたし、サブカルチャーの一つでした。それが今やインターネットという社会基盤はインフラとして認識されその上であらゆる経済活動や文化活動か行われています。

これはイノベーションとの関係性があるものと考えますが、サブカルチャーそのものがイノベーションを生む種であることは間違いなさそうです。どのサブカルチャーがポップカルチャーに昇華していくかはわかりませんが、人々は刺激的で新しくてその時代にあったメッセージを欲しているということかもしれません。

そして、どの時代にもそういったものを欲しがる若者は存在し、生み出す側と消費する側が一緒になって新しい時代を作ってきたのかもしれません。現代はその生み出す側と消費する側との境界もなくなってしまったという理解をすれば、こんなにもワクワクする時代が始まっているのだと感動しますね。

 テレビ「ニッポン戦後サブカルチャー史」が素晴らしい(感想/レビュー) テレビ「ニッポン戦後サブカルチャー史」が素晴らしい(感想/レビュー)

NHK ニッポン戦後サブカルチャー史 テレビ「ニッポン戦後サブカルチャー史」が素晴らしい(感想/レビュー)

書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー)

書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました。
これはかなり良い本だと思いました。感想でも書いてみたいと思います。

 書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー) 書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー)

キーパーソン・マーケティング: なぜ、あの人のクチコミは影響力があるのか 書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー)

最近、マーケティング関連の書籍を読み漁っているわけですが、この「キーパーソン・マーケティング」を知ったきっかけは著書である山本晶さんのキャリアを取り扱った記事でした。

山本晶さんは広告代理店に入社してから2年あまりでマーケティングの知識が欲しいと感じ東大の大学院に入学し博士課程へと進みます。卒業後は学問の世界にとどまれるか、ダメならビジネスの世界に戻るかという選択に迫られますが、成蹊大学で講師をすることになり9年間勤めます。そして2014年より慶應ビジネススクール初の女性教員としてキャリアを積むことになります。華々しいキャリアを形成されている山本晶さんですが、努力と情熱で積み上げた才色兼備な女性学者なのではないでしょうか。

そんな山本晶さんが書かれた「キーパーソン・マーケティング」はクチコミとビジネスの関係性について深く考察された内容になっています。クチコミとビジネスといえばバイラルマーケティングという分野になると思いますが、そのバイラルマーケティングの構造を解き明かし、クチコミという現象の中に潜む人間の心理や行動を丁寧に説明しています。

情報伝達の重要なキーパーソンであるオピ二オン・リーダーを見つける4つの方法や、キーパーソンとクチコミの影響力、クチコミは売り上げにつながるのかなどのさまざまな解説がご自身の調査結果と共に理論付けされています。学者特有の現場離れした内容でもなく、現場特有の定性的な内容でもなく、しっかりしたバックグラウンドと調査結果をもとにクチコミとビジネスを論じた内容です。

また、この著者が語る新しい言葉の定義がこの本には出てきます。

同じテレビ番組や同じ雑誌といった同じメディアに接し、そこから得た情報について話題にすることで結ばれる縁は、「メディア縁」と考えてよいのではないでしょうか。「メディア縁」は、同じメディアに接触することによってオフラインの日常生活で形成される縁です。

クチコミの効果を高める一つの方法として「メディア縁」を意識するということです。同じメディアに接触する人々が集まるコミュニティにを活用することが有効で、それらの中にはキーパーソンが複数存在しそれらのキーパーソンがHUBの役目を果たしてクチコミ効果が波及していくという考え方です。

たしかにそうかもしれないという納得の内容ですが、時代と共にクチコミ効果に纏わるツールのトレンドも変化しますので、常にアンテナを張ってゆくしかないのかもしれません。

仕事場のデスクの上において置き、Webマーケティングに迷ったら読み返してみたくなるような内容ではないでしょうか。

 書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー) 書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー)

キーパーソン・マーケティング: なぜ、あの人のクチコミは影響力があるのか 書籍「キーパーソン・マーケティング」を読みました(感想/レビュー)

2014-09-21 | ライフスタイル

ノートパソコンをお洒落に持ち歩けるインナーケースを見つけました

ノートパソコンをお洒落に持ち歩けるインナーケースを見つけました。

inateck inner case ノートパソコンをお洒落に持ち歩けるインナーケースを見つけました

質実剛健のウルトラブックである東芝のdynabook R634を購入して使っています。Macもどきのノートパソコンなんか使わずにMacを買えば良いじゃないかとも思いますが、Windowsが使いたいしデザインも重要なのです。

それで、時には小粋にノートパソコンを持ち出してみることも有るのか無いのか今の所はわかりませんが、ノートパソコンを車に積んだりバックの中に入れて持ち運ぶ為にインナーケースを探していました。

インナーケースといってもファスナーの付いた物は数あれど、機器に傷がつくので使いたくありません。できればウエットスーツ素材のシンプルな物をと思って探していましたが、なかなか気に入る物が見つかりませんでした。そんな時、この「Inateck 13.3Inch インナーケース MacBook Pro Retina/ウルトラブック/ネットブック用 プロテクターケース」を見つけたので買ってみました。

サイズ感ですが、13.3インチのウルトラブックならどれも綺麗に収まるのではないでしょうか。dynabook R634やVAIO Pro13はすっぽりとジャストサイズで入れることができました。ウルトラブックというのは軽さが命です。この商品はフェルト生地ですのでめちゃめちゃ軽いです。クッション性も比較的ありますので、このままカバンに入れるも良し、小脇に抱えて歩くも良しだと思います。

ただ、少し残念なのが付属する電源アダプターを収納するケースは小さいです。Macの電源アダプタは独特の形状をしていて小さいので入るのかもしれませんが、ウルトラブックの電源アダプターは斜めにギリギリ入る程度の大きさです。インナーケースにはポケット収納がついていますので、その他、小物を収納するにも適していそうです。

フェルト生地ですので、使用頻度が高い人は毛羽立ちや汚れなどのダメージですぐにボロボロになりそうな予感はありますが、コストパフォーマンスと軽さとお洒落さを考慮したらとても良い商品だと思いました。

 ノートパソコンをお洒落に持ち歩けるインナーケースを見つけました ノートパソコンをお洒落に持ち歩けるインナーケースを見つけました

Inateck 13.3Inch インナーケース MacBook Pro Retina/ウルトラブック/ネットブック用 プロテクターケース [寸法: 13.3インチ, カラー: グレー] ノートパソコンをお洒落に持ち歩けるインナーケースを見つけました

映画「るろうに剣心」の三部作について考えてみた(感想/レビュー)

映画「るろうに剣心」の三部作について考えてみた。
先日、「るろうに剣心 伝説の最後編」を観て色々思うところもあったので感想でも書いてみます。

rurouni kenshin 映画「るろうに剣心」の三部作について考えてみた(感想/レビュー)

言わずとも知れた「るろうに剣心」の原作はマンガでテレビやOVAのアニメ化もされている大ヒット作品です。その昔、少年ジャンプで心躍らせながら読んでいましたし、テレビアニメ化がされて毎週楽しみに観ていました。テレビアニメでは主題歌やエンディング曲が話題になりました。

JUDY AND MARYの「そばかす」、川本真琴は「1/2」、T.M.Revolutionは「HEART OF SWORD ~夜明け前~」、SIAM SHADEは「1/3の純情な感情」で有名になっていったと記憶しています。また、L’Arc~en~Cielは「the Fourth Avenue Cafe」が使用されていましたが事情により差し替えられるという出来事もありました。アニメと音楽とが良い相乗効果を出してアニメだけでなく曲を提供したアーティストも売れていくという流れが出来上がったのも「るろうに剣心」の良さの一つかもしれません。

さて、そんな「るろうに剣心」を実写化するというのですから、ファンとしては楽しみというよりも不安でした。そもそもマンガやアニメをわざわざ実写化する意味合いが理解できません。マンガやアニメであるからこその描写があるわけだから、実写でそれを再現しても超えることはできないのではないかと思うからです。

しかし、そんな気持ちを打ち砕いてくれたのが映画「るろうに剣心」でした。2012年8月25日に公開された映画「るろうに剣心」はみごとに映画ならではの描写で原作の話を壊さずにストーリを一部繋ぎ合わせながら、見事な作品として仕上がっていました。

2014年夏、映画「るろうに剣心」の続きが見られるということで、僕は大変楽しみに公開を待っていました。まず、2014年8月1日に公開されたのが映画「るろうに剣心 京都大火編」です。これは剣心が志々雄真実の暗躍を阻止する為に京都に向かう話が中心になります。原作とそれほど外れてはいませんが、特に見所もなく、重要なはずである相楽左之助の二重の極み会得のシーンはまったくありませんでした。また、新井赤空の最後の一振りを狙う刀狩の張との対戦も見所の一つになるはずが、緋村抜刀斎と緋村剣心との移り変わりの葛藤が今一描ききれていません。最後に至ってはシークレット的な役割で登場した比古清十郎役の福山雅治が登場するシーンで終わります。金を払うに値しない映画だなと思いました。この後公開する「伝説の最後編」への中継ぎだとしてもとても酷い内容です。映画単体としてストーリーが成り立っているのかどうか疑わしいと思います。

そして、一ヶ月半程経過した2014年9月13日に映画「るろうに剣心 伝説の最後編」が公開されました。前作の京都大火編でがっかりしていた分、伝説の最後編はとても期待していたことは間違いありません。伝説の最後編はマンガやアニメと話が変わっている部分が沢山ありました。剣心が比古清十郎に飛天御剣流の奥義を伝授してもらうシーンはただのチャンバラになっていましたし、奥義である天翔龍閃を会得する為には九頭龍閃を会得することが必須であるにも関わらずその描写はありませんでした。また、奥義である天翔龍閃は「生きる」という視点が重要であり、死生観を刻み込む為に一子相伝の技であるべき描写が重要です。天翔龍閃を教えるということは教えた側は死ぬということがまた一つ大きな物語の要素なのではないでしょうか。原作では比古清十郎は死ぬことはなかったですが、天翔龍閃の技の根源を十分に訴えたシーンになっていたと思います。

四乃森蒼紫の緋村抜刀斎への執着についてはある程度伝わってはくるのではないかと思いましたが、最強の名を賭けるということは最強の技と技がぶつかりあうことに意味があると思います。映画では回天剣舞は一度も描かれませんでした。

また、十本刀との決着シーンは一つの見所であるはずですが、相楽左之助は二重の極みを会得することがないわけですので、安慈との決着シーンもただの殴り合いで終わります。そして、瀬田宗次郎が心を開放するシーンはとても粗末なものだと感じました。縮地や瞬天殺というの飛天御剣流にも負けることのない速さを武器に戦うシーンもありませんでした。

僕が「るろうに剣心」で一番好きなキャラクターは斉藤一です。悪即斬を信条に愚直に生きる斉藤一の姿は男を感じるからです。斉藤一の必殺技は牙突という突きのみです。突きしかないので、馬鹿の一つ覚えのように突きばかり放ちます。しかし、それが良いのです。牙突には壱式、弐式、参式とあり、最強の技は相手の意表を付く零式です。牙突は距離がある相手に脚力を使って遠くから突きを放つ技ですが、零式は上半身のバネを利用して近距離で牙突を放ちます。原作ではこの牙突が重要な役割を果たしてきました。剣心との戦いでは緋村剣心から緋村抜刀斎へと変身させたり、宇水との戦いでは相手の本質を見抜き欺いたり、その集大成として志々雄真実には一矢報いる技として剣心の助けとなるのです。しかし、映画「るろうに剣心」の三部作ではそれらしいそぶりで技を出すことはありましたが、牙突という技を明示することはありません。

とここまで書いてきて、総じて映画「るろうに剣心 京都大火編/伝説の最後編」にはがっかりしているわけですが。そもそも「るろうに剣心」の面白さというのはなんだろうかと考えました。

それは以下の三つなのではないでしょうか。

■時代性

一つ目、「時代性」というのはまさに幕末から明治という動乱の時代を描いていて、登場人物も実在した人物がモチーフになっている点です。特に説明は不要だと思いますが、時代背景そのものがストーリーを躍動させていることは間違いないと思います。

■キャラクターの二面性

二つ目、「キャラクターの二面性」というのは、緋村剣心が緋村抜刀斎という二面性を持っていることや、薫はやさしさと強さの二面性を持っています。また、斉藤一はハードボイルドで冷酷な一面と仲間を思う思いやりに満ちた二面性を持っています。また、もう一つ大きな視点でいうと敵と見方それぞれがそれぞれの言い分があり、どちらにも正義があるという時代性とも符合する二面性がテーマの一つなのだと思います。

■必殺技というツール

三つ目、「必殺技というツール」というのは、剣心でいうところの九頭龍閃や天翔龍閃、斉藤一でいう牙突、四乃森蒼紫でいう回天剣舞、瀬田宗次郎でいう瞬天殺、志々雄真実でいう紅蓮腕や火産霊神で、キャラクターが持っている個性一つであるはずの必殺技のことです。この必殺技どうしのぶつかり合いが「るろうに剣心」の最大の魅力であり、必殺技を通してそのキャラクターの人生観をも感じる大切なツールだと思っています。

2012年8月25日に公開された映画「るろうに剣心」ではまだ必殺技を必要としなかったこともあり時代性とキャラクターの二面性だけで十分に楽しめるストーリーでした。しかし、2014年夏に公開された映画「るろうに剣心 京都大火編/伝説の最後編」では敵も強くなり登場人物はそれぞれのキャラクターの二面性を持ち合わせています。そして、そのキャラクターとキャラクターとの死闘から生まれる物語が中心のはずなのに、そこで重要な「必殺技というツール」を描くことはしませんでした。戦いのシーンでは香港映画のようなアクションシーンが中心で技をキャラクターと共に描かなかったことが、物足りなさの要因なのではないかと考えました。

これは僕だけの感覚かもしれませんが、映画「るろうに剣心 京都大火編/伝説の最後編」は圧倒的にそれらが欠けていたと思っています。一作目の映画「るろうに剣心」がとても良かっただけに残念でしかたありません。ただ、キャスティングの面では素晴らしい役者さんがそろっていて、キャラクターに見合った配役だと思いました。僕の好きな斉藤一を江口洋介が演じているのは最高に格好良いです。

考えが纏まっているようで纏まっていませんね。
批判的な内容になってしまい残念ですしなかなか難しい。

 映画「るろうに剣心」の三部作について考えてみた(感想/レビュー) 映画「るろうに剣心」の三部作について考えてみた(感想/レビュー)

るろうに剣心 DVDスペシャルプライス版 映画「るろうに剣心」の三部作について考えてみた(感想/レビュー)

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